リスク管理(回転寿司醤油チューチュー事件・コロナ感染対策等で思うこと)

最近話題になっている回転寿司、外食チェーンでのいたずらへの対策

感染対策におけるマスクの強要、マスク外せの強要

コンプライアンス重視社会においての規定の強要

 

これらの問題の根本は個人的には同じだと思っている。

ようはリスク管理のアプローチの問題なのだ。

 

何か問題が起きたときには今後それを起こさせない対策が求められる。

Ⓐ「その対策を行ったときに強いられる善良なる当事者の手間」と

Ⓑ「その危険が実際におきたときへの感情的な問題意識」が天秤にかけられ

ⒶとⒷのどちらかによってしまったときに逆側にいる人たちからの反発が世の中の分断問題の肝になっているように思うのである。

例えば回転寿司におけるいたずらの問題。これを防ごうと思えば簡単である。

回転をやめればよい。本来の飲食店のように手にもって店員が運ぶシステムに変える。醤油等の調味料は本人たちが欲しいといったとき、もしくは店側の判断で調味料をメニューによって同時に提供すればよい。

これで解決するわけだが、そもそもそれをするとオペレーションコストが跳ね上がり安くて美味い寿司は提供できなくなるわけだ。

そうすると善良な当事者たちは怒る。我々のように正しくマナーを守って飲食すればおいしくて安い寿司が食べられるのにほんの一部の不届きもののせいで食べることができなくなるわけだから怒りももっともである。おいしい寿司を食べるには多くの人が余分にお金を出さないといけなくなるわけである。

先ほどのⒶとⒷの天秤理論にあてはめると、オペレーションコストを高め多くの人が余分にお金を出す=Ⓐ、誰かが口につけた醤油や食べたものを食べさせられることへの恐れ=Ⓑとなるわけである。で、この問題の場合は多くの人がⒶは嫌なのでありⒶの負担を嫌がる側が勝つ。Ⓑは仕方ないので加害者に罰を与えることで解決しようという形になる。結果として加害者に罪を求める意見が多数になり、私刑が横行することになる。回転寿司自体の業務体制がいかんのでそれをやめろという人は少ない(中にはいるのだろうけど私が見ている限りは少ないように見える)。

マスクのことをとってもそうである。マスクをすることが嫌な人たちが一定数いる(ちなみに私もそうであり、様々なところで議論は起きているのでここでは論じない)。マスクをすることが嫌な人にとってはマスクをつけることは広い意味でⒶにあたる。なぜならマスクをつけることは手間であり、なんなら意味のないことだと思っており、有害だとすら思っていたりするわけだ。

マスクのない状態で感染することはⒷにあたる。あくまでマスクに意味があると思っている人たちにとってではあるが社会的に広い意味でⒷにあたるわけである。

今のところ、日本ではどこもかしこもマスクだらけである。であればⒷが勝っていてⒶが負けているからそういう結果になっている。内心、マスクなんて意味ないし、したところでなと思っている人もマスクにおけるⒷがこの世の中の趨勢であるからマスクをしているだけだ。Ⓐの負担はⒷのために甘んじて受け入れようという社会通念になっているのだ。Ⓐの負担が重いのでなんとかそちらを勝たせようといろんな主張を並べてマスクの不合理性を説く人もいる(個人的にはこちらが正しいようにしか見えないのだが笑)が、「感染して死んだ人や、身内がなくなった人の前でそんなこと言えるのか」という感情論を持ち出される始末である。そもそも個別の感情論は絶対的な正しさでは存在しえず、Ⓑの天秤として勝たなければ社会的地位を確立できない。だってその個別の感情論が正しくて社会はそれにすべて従うべきというなら交通事故の問題なら車なんか乗らないほうがいいし、刃物を使った犯罪の問題なら、刃物をもつのは台所の包丁も含めてすべて免許制にしてしまえばいいわけだから。たまたまマスク問題でその個別の感情論が正しいように見えるかもしれなくて主張する人がいるが、それが道理として通るには背景がありⒷの天秤として社会的に勝利をおさめているから通るだけであり、その個別の感情論が正しいかのようにふるまうのは間違いだと思う。

様々なコンプライアンス規制もそうである。仕事柄いろんな個人情報を取り扱うのだが、お客様の身内がかけてきて、「本人が忙しいから、高齢だから、病気だから私が代理でしているのであってなぜ客のために配慮できないのだ」という論理で「個人情報をよこせ、もしくは契約行為を代理させろ」と言ってくる人たちがいる。その気持ちはとてもよくわかる。しかしそれを認めてしまうとそれが原因で起こった危険について責任がとれないのだ。社会はそれについてその当事者に罰するだけでは許されずⒶを持ち出しての反発よりもⒷを持ち出しての反発のほうが勝つのである。みんながきちんとそのめんどくさい規定によっておこる手間Ⓐを甘受するべきであり守っていない会社が悪いとなる。これがⒶの負担のほうが大変なんだよというの理論を持ち出しての反発が勝てば(つまり、先ほどのお客様の身内の意見が勝てば)、Ⓑがもしあったとしてもその当事者への罰さえしっかりあればいいということで、ゆるやかな個人情報管理、契約行為の代理へと社会は移行されていく。回転ずしと一緒だね。それはその問題を起こした人が悪いのであって、善良な当事者たちには迷惑をかけるべきでないという社会通念が勝つのでその危険を起こした当事者を罰して今までどおり安くておいしい寿司は食べていけるという選択をすることになる。

 

結局はリスク管理における議論の炎上はⒶとⒷの天秤理論に基づいて考えれば整理しやすいと私は考える。

どこでこのⒶとⒷの天秤を見るのか、判断するのは管理者側であり、難しいところではある。そして日本という国(そこまで他国の文化に精通しているわけではないのでいつもこの言い回しをするときは傲慢だなと自戒したりもするが)では責任をとりたくない上役、経営陣が多すぎるので、規則のほうが厳しく、善良な当事者たちにとってめんどくさい手間が増えている。これが日本の労働生産性を低くしている原因の一つではないかと思っている。その昔聞いた話だがまだまだFAX全盛時代、FAXの送り先を間違えてはいけないのでFAXは二人で送る(送り先をダブルチェックするために)という自治体があった。こんなもん個人的にはFAXを送り間違えた人を罰するべきであって組織体制をいじるべきではないと私は思ったのだが、社会的にはそれが善とされたのだからおもしろい。

また経営者たちの天秤をかけて判断するのが遅い。特に日本経済を引っ張る大企業。明らかにこうであるという前例がないと、確信がないと動かない。今の首相なんかもそうじゃないかな。増税の判断だけは先手を打っていけるようだけど。

ⒶとⒷの天秤をしっかりと判断し、説明し、ノイジーマイノリティーの意見はスルーしてダイナミックに判断を先導していくリーダーがこれからの時代には必要なのではないかと思う。